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死を意識する大切さ

2014年06月02日(月) 21:42

書店には生について書かれた本がたくさん並んでおり、メディアでも『生きることの大切さ』を説く方が多いが、残念なことに、死について真剣に討論する番組や、それを扱う本はほとんどない。現在、孤独死という言葉が独り歩きし、 孤独死した人を『不幸な人生を歩んだ人』というふうに解釈する傾向が世の中にある。だが、果たしてそうだろうか。逆に、チューブにつながれた悲惨な状態で、家族や親戚に看取られて死ぬことが幸せなのだろうか。私が思うに、これらに正解などなく、一人ひとりで違うだろう。腹を括って孤独死を選んだ人もいるだろうし、やむを得ず孤独死になってしまった人もいるだろう。だが、これら様々な背景のある人たちを一括りに『不幸』と片付けてしまうのは、実に浅はかだ。少し痛烈な言い方をさせていただくが、思想をもって生きている人の口からはこのような解釈は出ない。このような解釈をするのは、流されて生きてきた人に特有なのだ。仮にメディアが『孤独死は素晴らしい死に方』と報道した場合、流されて生きた人は、間違いなく『素晴らしい』と言うだろう。つまり、彼らには思想がないのだ。

1950年の日本では「82%」の人が自宅で死んでいたが、2005年の調査では「12%」に激減しており、ほとんどの人は病院で亡くなっていることになる。だが、2030年頃になると、後期高齢者の数が激増するため、1年間に死亡する日本人の数が現在の120万人から170万人になると予測されている。言うまでもなく、病床はそんなに増やすことはできず、本人の希望は関係なく、自宅で亡くなる人が増えるのは自明だ。『人間は病院で死ぬものだ』と決めつけ、深く死について考えないで生きてきた人たちにとっては、混乱の時代になるだろう。

浄土真宗の中興の祖である蓮如上人は白骨の御文章の中で、次のように述べている。

『朝紅い顔をしていた若者が、夕べには白骨になっている』

吉田松陰曰く

『100年のときは一瞬に過ぎない』

と述べているが、人の一生というものはほんの一瞬に過ぎず、私もあなたも誰もかもが、数十年後には白骨になっている。だが、この当たり前のことに関して、現代という時代はあまり考えることがないのではないだろか。これだけデジタルが発達して、医療も発達し、便利な世の中になり、平均寿命も80歳を超えている昨今、人々にとって「死」というものが、今まで以上に遠い存在になるのも不思議ではない。だが、どれだけ便利な世の中になろうと、未だかつて150を超えた人は皆無で、75歳をピークに、死ぬ人が圧倒的に増えるという図式は変わらない。また、平均寿命などはあくまでも生きている人の割合であり、その中には、外出できない、歩けない、動けない人、もたくさん含まれているのだ。また、20歳で死ぬ人もいれば100歳まで生きる人もいるように、その人が何歳まで生きられるかは、平均寿命などを参考にすべきではない。

一つ断言できることは、

『安倍晋三も、石原慎太郎も、仲間由紀恵も、石川遼も、浅田真央も、小保方さんも、私も、あなたも、例外なく、皆数十年以内に白骨になる』

ということだ。「今、目にしているものは全てなくなる」というのが歴史の流れだ。この世に何一つ不変のものはない。これを仏教では諸行無常という。

今私はマイケルジャクソンの曲を聞きながらこの文章を書いているが、彼も50歳で突如白骨になってしまった。彼はそれを予測していただろうか。あるいは、ジョンレノンはある日誰かに暗殺され、白骨になってしまった。彼らはそれを予想しただろうか。当然、そんなことは夢にも思っていなかっただろう。多くの場合、 「死」は予測していない時に来るものなのだ。その時になって考えても遅い。今から死について自分なりの解釈を持ち、それを日々の生活に反映させることが、何よりも大切なことだと思う。






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