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コミュニケーションとは?

2010年03月14日(日) 22:43

よく「あいつはコミュニケーション能力に欠ける」などという言葉を聞くが、その言葉に信憑性はない。なぜならば、私自身の体験に答えがあるからだ。小学校、中学校と「コミュニケーションが上手いから歯科医師に向いている」とよく言われて、高校では「きみの天職は歯科医師か総理大臣だ」と言われていた。おそらく、それは私に大きな影響を与えただろう。しかし、高校の終わりくらいかな?・・・私がイギリスにホームステイに行ったときにおまけでついてきた体育の教師が、

    「君はコミュニケーションを積極すべき」(ニュアンス的に)

という言葉をかけてきたのだ。グリコのメインはキャラメルである。なぜ、おまけのおもちゃに過ぎない「体育教師」にそのようなことを言われなければならなかったのか?・・・少し考えたとき、その答えが分かった。それは、「その体育教師のコミュニケーションの定義がおかしい」である。もちろん、単純に私のコミュニケーション能力の高さに嫉妬したことが原因かもしれないし、障害をお持ちの方なのかもしれない。しかし、もっとも信憑性の高い答えは、「定義」の問題である。Lの談話室の会員は、コミュニケーションが上手すぎて、たしかに私のほうが劣っているという見解も何票かありえる。

しかし、よくよく考えてみれば、それも、私から見た「コミュニケーションの定義」を基準にした見解に過ぎない。つまり、1+1=2という「共通した答え」が、「コミュニケーション」にはないということだ。そのため、その人の価値観や教育環境により、その定義は異なるということだ。おそらく、その体育教師には悪気がなかったのだろう。なぜならば、彼の考えが私の考えと異なるということだからだ。大学でも「コミュニケーション」にまつわるご批判はよく受けるが、それらも「定義の違い」という当たり前の現象なのだ。彼らに悪気はない。


おそらく、そのグリコのおまけにとっての「コミュニケーション能力」というのは、「自らの希望を口に出すことを避け、その環境になじむこと」という、日本人の約30%が占めている定義(L会の日本推察ノート参照)である。これは個人の勝手であり、私がとやかくいう問題ではない。一つ言えのは私の定義とは異なるということだ。おそらく、このおまけがいう「君はコミュニケーションを積極すべき」という言葉の創作は、次のエピソードが起因しているのだろう。

私のエピソード
「高校の時に、学校の「イギリス1カ月ホームステイ」に応募して行ってきた。私は事前説明において「父、母、兄という3人のホストファミリーが私を待っているという説明を受けていた。ホストファミリーの手紙には、『私たち3人はあなたを温かく迎えます』と書かれていた。・・・しかし、事情は異なっていた。入るなり男女が2カップル+全裸の男が私の前に現れて、「ハロー、こにちは」と日本語で挨拶をしてきたのだ。これは何かのミステークだと考え、ホストマザーに古こけた小さな部屋に通された。しかし、次の日になっても「その男女は私の前に存在する」。「Who are you?」と何度も聞いた記憶がある。そして、ようやく彼らが私の同じ「ホームステイ」の立場だとわかった。さらに、父も兄も3カ月の留守中であった。

・・・このような詐欺を受けて「いいですよ」などと呑気なことをいうほど私もバカではない。すぐに、イギリスに在住する「親戚(アメリカ人)」に電話をした。アメリカ人であっても妻は台湾の人なので、日本語がぺらぺらである。事情を話すと、すぐに「だったら、そんなところはやめて、私たちの家に来なさい」と言われたため、ホームステイ担当の女性(相談役)に電話をした。この女性は私の意見に対して、「でも、それだと、ホストファミリーに失礼です」と言ってきた。「私はあなた方にだまされました。話が違います。ならば、違う家を用意してください」と言うと、20分後に電話がかかってきて「わかりました」と返事をもらった。問題はそのあとである。3日目にキングスという誰でも入れる学校にて「体育教師(おまけ)と英語教師(おまけ)と会って、再度同じことを言った。その時は「わかった」と言っていたが、ぶつぶつと文句を言ってきたのも事実だ。その後、すばらしいホストファミリーを紹介された」


このときのエピソードを根に持っているのだろう。たしかに、これは、彼のコミュニケーションの定義からは「外れた」行動と言えるかもしれない。しかし、私のコミュニケーションの定義は、「自分の希望を訴え、良い悪いを明確に表す」ことなので、むしろ、体育教師が「コミュニケーションが非積極的」なのである。


つまり、「コミュニケーション能力」というのは、人によって「定義」が違い、誰から見た視点なのかをはっきりとすることが重要だ。数学的に表すと何事も理解しやすいと思うため、次に示す。


●「自分のコミュニケーション能力の定義」≠「他人のコミュニケーション能力の定義」


別にコミュニケーションに限ったことではないが、何事も千差万別、人によって「考え方の定義は異なる」のだから、誰かが自分に対して言うコメントを真に受けず(これは実は不可能)、あらゆる視点(多くの定義)があるということを忘れてはいけない。

もうひとつ、私は常々「体育教師は嫌い」という言葉を言っており、L会でも毎回言っている。それにはわけがある。この大学で一昨年体験したことだが、その体育教師に『試験の質問』をしたときのこと。彼は私にこう言った。

    「君の理解能力は0点だ。君自身の構造に問題があるのでは?」

言ったように、私は体育教師が嫌いなのだ。なぜならば、彼らの「定義」は共通している場合が多く、そのほとんどが、「私と相性が合わない」ということだ。これは仕方ない。
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