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☆「評価」と「事実」の違い☆

2012年12月02日(日) 16:46

私がこの違いに気づいたのは数年前。だが、現実問題として多くの人はこの事実を知らない可能性が高い。それは今の日本の閉塞感が象徴的だ。留学生が口を揃えていう言葉、それが『閉塞感』である。彼ら、彼女らは日本に帰ってきた途端に、海外と日本との格差に気づくという。それは金銭的格差ではない、意識の格差である。日本国内だけにいればそれを感じることは困難だ。なぜならば、この意識の格差は『国内の比較』ではなく、国外と国内の比較によって初めてわかるものだからだ。この意識の格差、シンプルに言えば、

人々の意識が『能動的か』『受動的か』の違いだ。能動的な人が醸し出す空気は明るく・楽しいものだ。従ってその国の空気は必然的に明るく、エネルギッシュになる。受動的な人が醸し出す空気は暗く・閉塞的なものだ。従ってその国の空気は必然的に閉鎖的になる。

では、意識の格差はなぜ起こるのだろうか。私は常日頃からこの原因は先天的なものではなく、後天的なものによると確信している。基本的に人間は皆『能動的』なものだ。それは子供時代をみればわかることだ。欲しいものは欲しい、嫌なものは嫌、将来は宇宙飛行士、スポーツ選手になりたい、とはっきり主張しているだろう。だが、大人になるにつれ、思春期、成人となるにつれ、子供の頃の能動性はなくなり、欲しくても言わない、嫌でも言わない、何も言わない、全て任せる、という受動的な人になってしまう。なぜか?私にはこの原因のヒントが『事実』と『評価』の違いに気づいてないからに思えてならない。以下に、簡単に説明する。

●ある中学のクラスで委員長に立候補した生徒が、ほかの生徒から支持されず、落ちてしまったとしよう。その時、何人かの生徒は『あの人にリーダーが務まるはずがない』と言った。

このケースの中で、「事実」とは何か?それは

『クラスの中で立候補したが落ちてしまった』ということ。

そして、「評価」とは何か?それは

数人の人に『あの人にリーダーが務まるはずがない』と言われたことだ。

この2つの『事実』と『評価』は全く意味のことなる現象だ。前者が客観的事実であるのに対し、後者は単なるクラス単位の意見の総和に過ぎない。極端な言い方をすれば『経験も知識も少ない人間の主観的な考え、流してもさして変わらない浅はかな考え』にすぎないのだ。つまり、このケースの結論は、

『あなたが委員長になることを、「このクラスの人」は不支持した』

ということなのだ。しかし、多くの日本人は『事実』と『評価』を同類のものと認識してしまい

『あなたが委員長になることを「誰も」が否定した』と認識し、『私にはリーダーになる器がない』とさえ結論づけてしまう傾向にある。この例はひとつのエピソードに過ぎないが、ほとんどの人がこのような他者からの単なるレッテルを『貴重な正しい意見』と認識し、自分に適性がないと判断してしまっている傾向にあると思う。

なぜこのような決め付けを私がしているかというと、それは日本社会ならではの理由による。そう、この傾向は海外にはほとんどなく、日本人特有に起こる残念な現象なのだ。その理由とはなにか。

『集団主義』『和を極度に重んじる』『上下関係』『世間体を極度に気にする国民性』

この特性は他国ではほとんどみられないものだ。特に大きな理由になっているものが、

『世間体を極度に気にする国民性』だ。

そもそも『世間体』という概念は日本独特のものだ。海外では『社会』はあっても『世間』という考えはない。そのため、企業のトップや不祥事を起こしたスポーツ選手が泣きながら謝罪会見をすることは日本特有の現象なのだ(海外では泣いて許してもらえることはない。不祥事を起こしたという事実だけが見られ、世間体が判断するというシステムはない)。そのため、企業だけに限らず、日本では『謝ればなんとかなる』という風潮が社会のすみずみまである。その結果『とにかく謝れ』という主体性よりも空気に従えという圧力が生まれてしまうのだ。

「遅刻をしたら謝れ。お前の言い訳はきかない」「失敗したら弁解せず謝れ」

・・・このようなルールがこの国にはある。このようなルールの中で育ってきた人は、自然と『主体性』がなくなり、他人の意見を極度に尊重してしまうのだ。もっと言えば、無宗教の人が多い日本では、『世間(他人)様』が神格化してしまう傾向にあるのだ。このような社会に生きた人は、必然的に、

『他人様の評価』は『事実』

と考えてしまうようになる。すなわち、過度に他人の言うことが正しいと感じてしまうのだ。その結果、一度や二度の失敗だけで『自分には適性がない』と感じ、若くして自信を失い、受動的な思考・行動になってしまうのである。言うまでもなく、自信が無くなってしまえば、能動的な行動はなくなる。

評論家や専門家は『日本の閉塞感』について『なぜ、もっと若い人は希望を持たないのか?』という論調をするが、「なぜ?」の理由を自分なりに理解し、発言する人はほとんど皆無だ。

『評価』と『事実』は全く別物だ、という教育をしない限り、日本は活気を取り戻すことはできないだろう。

結論
ウォルト・ディズニーは徹底的に批判され、誹謗・中傷されてきた。もし、彼が評価と事実を混同していたら、今の世界にディズニーランドはなかっただろう。これはあらゆることに言える。『Panasonic』『SONY』『Face book』『Windows』『スターバックス』・・・なにも生まれていないだろう。結果、パソコンもカメラも、通信も、カフェテリアもなにもない21世紀になっていただろう。これ以上に『評価』と『事実』を混同していけないエビデンスはないだろう。無論、これは私の持論であり、事実ではない。キリスト教、イスラム教、新宗教・・・は、その教えを信じるものが入信するものだ。私の考えが正しい、間違っている、ではなく、私の考えに賛同しれくれる人だけが信じ、人生に生かして頂ければいいと思う。
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