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教育の現場にも競争を

2012年08月19日(日) 13:29

エッセイストのデュランれい子氏は著書『日本人を操る8つの言葉』の中で、次のように述べている。

『東京ですれ違う人々は、ひいき目に見えも幸せそうには見えない。街を歩けば無表情で険しい目をした人たちとすれ違い・・・』

これはデュランれい子氏に限らず、多くの人々が指摘している事実である。それに付け加え、この国には『~しなければならない』という呪縛がいたるところにあり、皆が皆自分の意志を持たず、周りに流されている(洗脳されている)ようにさえ思える。私はいまだに原宿と新宿を歩くことはできない。この駅へ降り立った瞬間に、あらゆるやる気を失い、自信をもって歩くことができなくなる(今年4月に新宿駅で体調を崩したほどだ)。その理由は、あまりにも価値観に溝がありすぎるからだ。今風の服を着て、今風の話題を今風の喋り方で喋らないものは『外の奴』というあの空気が私にはアレルギーとなっている。私の価値観は『人それぞれ。好きなことをすればいい。多少迷惑をかけてもお互い様』であるため、『全員がこうしなければならない』という風土にはどうしても合わない。以前この話を仲の良い人に話したところ、驚くことに全会一致で共感されたことがある。やはり、個人で勝負している人にはあの空気は耐えられないのだろう。

さて、今回は、こういう『~しなければならない』という規制好きな日本人を作っている製造会社『教育機関』について考えてみたい。私は教師が嫌いだ(良い教師もいる)。なぜならば、彼らは『自分が正しい』と思い込んでおり、生徒・学生らを『下』に見ているからだ。なぜ、このような事態になるかといえば、『教師』というのは大学を卒業し、社会経験も浅いにもかかわらず、すぐに『先生』と呼ばれてしまうことにある。また、教える相手が自分よりかなり年下であるため、勝手に『自分が大人で、彼らが子供』という考えに浸り、『私は先生。私が正しい』という勘違いをしてしまうのだ。人生おいて幾度となく挑戦・失敗・挫折を繰り返してきたビジネスマンや医師や弁護士、経営者が言う言葉には重みがあるが、なんの経験も挑戦もしていない人々が言う言葉には重みなどない。彼らが持っているのは免許に過ぎない。しかし、恐ろしいことに、教師になった瞬間に『自分は先生。私が正しい』と思い込んでしまう人が多い。生意気なことを言わせていただくと、私は20代だが、40代の教師よりも優れている点はたくさんあると思っている。いや、私だけでなく、多くの人にそれが言えるのではないだろうか。ある一面においては教師のほうが優れている部分はある。だが、その他のある一面については自分のほうが優れている点というのは必ずある。それを前提から『有り得ない。お前は生意気だ』と考え、生徒・学生らの意見を尊重しない風土が日本にはありすぎる。これはお隣の国韓国でも同様だ。

その根本原因は、「教師が上」「生徒が下」という愚かな暗黙の了解の存在なのだ。つまり、私が何を言いたいかといえば、教師の仕事は『学問の教え』と『生活のサポート』であり、決して『価値観の是正』『価値観の押し付け』ではないということだ。教師が絶対的に正しいなどということはどう考えても有り得ないのだ。にもかかわらず、『お前の考え方は間違っている。お前は~に行くべきだ。お前は~には向かない。お前の姿勢では就職すらできない。海外に行くぐらいなら日本で勉強しろ・・・』などなど、本人の人生にかかわることに口出しをしてはならない。・・・待ってくれ、それじゃあ、教師の仕事はどうなるんだ。生徒の進路を一緒に考えるのが教師の仕事だろ・・・全く理解不能な反論だ。教師にその人の進路を決める資格などない。その人の進路を決めるのも責任をとるのも本人だ。むしろ、私は問いたい。あなたが決めたことによって生じた本人の後悔について、

『あなたは責任をとれますか?』

とれるはずがない。つまり、言って終わりなのだ。本当に生徒のことを思うならば、『こういう考えもあると思うが、君が最後は決断しなさい』というべきなのだ。これは進路だけに限らず、その人の性格や価値観についても同じで、無闇矢鱈に『君のこういうところを直さないと、今後困るぞ』などという、自分の価値観に合わない考えを是正させることもやめなければならない。そんな権限は教師にはない。言ったからには責任をとらねばならないと思う。では、なぜ、教師はこのような勘違いをしてしまうのか。その答えは実にシンプルだ。2つある。1つ目は

『競争がない』

生徒・学生はお金と時間を払って学校に通っている。社会に出るために必要なことを教わるのであれば、本来教師は生徒・学生に命令形で意見をいうこと自体がおかしい。これはビジネスであり、生徒・学生があらゆる選択肢の中から選び、お金と時間を払っていることによって、教師は収入を得ることができている。本来ビジネスであれば、良い成果を出さないものはリストラされ、優秀なものがヘッドハンティングされる。場合によっては倒産する。だが、教師に『自分がリストラされる』という危機感はない。だから、言いたい放題、やりたい放題で、プロ意識などないのだ。ひどい教師になると、生徒・学生を怒鳴ることに生きがいを感じているものもいる。そういう輩は、『自分が怒鳴っている相手がいなければ生きていけない』という現実を知るべきだ。これは厳しいことだが、事実だ。

教育機関である以上、『様』とは言わないが、「お客さん」であることには変わりはない。学校はお客さん(生徒・学生・保護者)第一で行動しなければならない。にもかかわらず、教師同士の人間関係や家庭の事情、個人的好み、価値観などが仕事の場に持ち込まれるというのは、プロとして有り得ないことだ。そして、2つ目は、

『怒られない』

通常のビジネスマンは、成果を出せば報酬が上がるが、成果を出せなかった時、あるいは失敗した時に上司から警告を受けるのが当然だ。「なぜこうなったのか原因を考えろ」「あんな対応ではお客さん来ないだろ?」「もっと考えて動け」・・・これらの言葉は当然のようにビジネスマンは上からかけられる言葉だ。トップダウンのアメリカでは『次は選択肢はない。首だ』と平気で言われる。当然それを言われると『反省』『ショック』『自分を見つめ直す』という改善のための努力をするようになる。場合によっては反論することもあるだろう。しかし、これらのプロセスによって、現状維持ではなく、向上の精神で自分を磨いていくわけだ。にもかかわらず、教師の世界には(とりわけ年齢が上になると)、お叱りを与える存在がいない。つまり、彼ら教師を管理する者がいないのだ。そんな状況になれば、誰だって傲慢になり、生徒・学生を自分の価値観だけで教育することが習慣になってしまう。

私にとって教師の存在意義は『生徒・学生に社会に出てから不可欠な知識を教え、ひとりひとりの生徒・学生のQOLの向上のサポートをすること』だと思っている。つまり、学校に通う者に対して『サポート』をすることだと思う。無論、そのサポートの妨害をする一部の生徒・学生に対しては、呼び出して注意することも必要だ。

以下にとある教師が居酒屋のワタミで1ヶ月社会見学した動画を載せる。この動画では社長の渡邉美樹氏と教師が素直な対談をしている。ぜひ、ご覧になっていただきたい。


もう一度、教師の役割について考え直す時期に来ている。日本の将来を作る人々は皆彼らに影響されるのだから。
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