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間接的思考に基づく行動の重要性

2012年01月07日(土) 01:47

最近私はこの表現を頻繁に使っている。それは、『間接的思考』だ。これは、『2次的に作用する効果・影響を考えた上で行動をしよう』ということだ。まず、第一に既成概念を捨てていただきたい。この世にある常識はマジョリティが作っているものであり、『正しい』ということでは決してない。まずは常識に雁字搦(がんじがら)めになっている思考を真っ白にすることが大切である。
さて、以下のような人がこの世には存在する。

●日々やらなければならない課題をやることは苦痛でたまらないが、課題を終えた時に、『解放された気分になる』という人
●組織内で、周りの人が皆喋っているときは、否応なしに参加すべきだと考える人
●勉強が好きな奴なんていない、と考える人
●仕事は辛いものだ。しかし、辛いことの中にしか真の喜びはないと考える人
●自分は平均的、あるいはそれ以下だから、堂々とできないと考える人
●失敗はしてはいけない。だから身長に動く、と考える人
・・・and so on

今挙げた例を見事に体現されている方が多いのは周知の事実だと思うが、これらは全て『目の前のことに左右されすぎている』と言わざるを得ない。すなわち、「このこと」が自分・他者にどのように『直接的』に影響するのか?と真っ先に考えてしまっているのだ。これは短い目でみれば、非常に『秩序を乱さない協調性のある平和的な人』の特徴かもしれないが、長いスパンで見たときに、果たして同じことが言えるかと言えば、非常に疑問である。たとえば、直接的影響を真っ先に考える人が怠ってしまう罠の一つに『本質的に重要なことを忘れてしまう』ということがある。例えば、会社に入って、同僚や上司と仲良くすることに重点を置く人が『物凄く』多いと聞くが、仮に、その会社で『人気者』になったとして、いったいどのようなメリットがあるのか?を考えてみると、たしかに、声はかけてもらえるだろうし、飲み会に誘われる率も高まるだろう。また、表面的な友人も増えるはずだ。これはメリットだと一般的には思われている(私は全く同感しない)が、そういう人は、ある種の『循環にはまってしまっている』とも換言することができるだろう。動脈と静脈に流れている血流のスピードはそれぞれ違うのと同様に、ゆっくりの静脈にはまった人が、勢いよく出てくる動脈に移動するためには、『心臓』のような大きなエネルギーの媒体が必要だ。今回のケースの場合、会社内のコミュニケーションを上手くすることに重点を置いているため、『コミュニケーションの循環』はまっていると言える。本来、本質的に重要なことは『会社内の仕事の内容』であるはずだ。その人が仕事を通じて、どれだけ会社・社会に貢献するか、が問われるはずだ。だが、この人を仮にAさんとした場合、Aさんは狭い閉鎖的な会社内での『コミュニケーション』に最も気を取られていることになるため、本質的な目的がずれてしまっている。そして、先に申した通り、一度はまってしまった循環から抜け出すことは『不可能』に近いのだ。これは私自身多くの失敗から学んだことだ。

ここで簡単にまとめておくが、今回のAさんのケースでは、Aさんは直接的思考により、コミュニケーションの循環に真っ先に飛びついたわけだが、このときのAさんの思考の中には、『だって、仲良くしないと迷惑かけるもん』という考えがあったのだと考えられるが、それは直接的思考の最大の罠だ。

なぜならば、長い目で見たときに、Aさんは本質から大きく脱線し、『初心』に戻ることが難しくなってしまうため、これはAさんにとっても、会社の利益にとっても、社会にとっても損である。また、上司のご機嫌取りをすることで生じる『付加(プレッシャー)』により「ストレス」が生じた場合、そのフラストレーションの解消を家族や部下にあてる可能性もあるだろう。つまり、Aさんが安易に選択した直接的思考に基づく判断には大きな罠が隠れていたわけだ。たしかに、上司にかわいがられ、同僚と上手くやっていける人は『世間的・一般的・平均的(三拍子そろう)』であるため良い印象をもたれると思うが、その居心地のいい環境に慣れている間に、いつの間にか本当に大切なことを忘れてしまうのではないだろうか。つまり、直接的思考に基づく判断をしてしまう大きな理由の一つに、『安全地帯』にいられる、という錯覚が生じるのだと考えられる。

それは、『こういう判断をすれば、安全地帯にいられるだろう』という考えだ。

しかし、そこが数年後には危険地帯になっていることも十分にあり得るのだ。分かりやすく言うと、直接的思考に基づく判断は『危ない金融機関から金を借りる』ようなものなのだ。最初のうちは、金をたくさん貸してもらえるのだが、いつの間にか借金を返済することだけに時間が奪われ、本質的なことに集中できず、日々利子が高まる借金を返すことだけに時間を奪われることになる。無論、間接的思考に基づく判断にも失敗はつきもので、思うような結果がでないこともあるだろう。だが、根本的に

『直接的思考の失敗』と『間接的思考の失敗』は異なるものである

ということを強調したい。先ほどから申しているように、直接的思考に基づく判断は『本質から脱線している』ものであり、怖い金融機関から借金を借りているようなものであるが、間接的思考に基づく判断は、『本質を重要視したもの』であるため、たとえそれが上手くいかなくとも、『違うアプローチで攻めよう』という方向転換で済むのだ。

ここまで、私たちが日々判断を方法には、『直接的思考に基づくもの』と『間接的思考に基づくもの』に分かれると言う事を述べてきた。ここで、より分かりやすく1つの例を以下に挙げる。

●ミーティングにて、同僚との仲を尊重し、反対意見を言わない(直接的思考)
その結果 → そのプロジェクトの欠陥を指摘できず、失敗に終わった場合、言い訳などできず、『お前も同調しただろ』と言われてしまう。自分の価値を貶めるだけでなく、全体に悪い影響を与える。

●ミーティングにて、『後の祭りにならないように』反対意見を言う(間接的思考)
その結果 → その場では『KY』『協調性なし』と小物に文句を言われるが、プロジェクトの欠陥を指摘できただけでなく、自分の行動をコントロール出来たことに誇りを持て、人間的に前進し、新たな挑戦ができる。仮に指摘が間違っていたとしても、そこから生きた学びを得られる。数年後、その教訓をいかして、大きな成果を出すことで、社会にとっても、周りの人にとっても大きなプラスになる。さらに、その循環に乗ることができる。

こういう例は枚挙にいとまがない。今日の挑戦が『成功』した場合、それは社会にとって大きな喜びであるし、『失敗』した場合、そこから貴重な学びを得れば、次の挑戦では成功の可能性が高まる。その結果、社会にとって大きなプラスになる。・・・仮に、直接的思考に基づき、『リスクが高すぎる』と平和的な言い訳をし、なにかを始めることや挑戦することを諦めてしまえば、『成功』はもちろん『失敗』も経験できず、言うまでもなく、社会にとって喜びはもたらされない。歴史上の偉人の成功と失敗の繰り返しによって、今日の便利な社会があること一つをとっても、今日の便利な現象は、『間接的思考』に基づいて「挑戦を猛烈にしてきた偉人」がいなければあり得なかったのだ。

最も大切なことは、

『目の前の失敗を責める』という思考法ではなく、

『その失敗があったが故に、社会に大きな喜びをもたらすことができるのだから、むしろ喜ぶべきことだ』

という思考法だ。まさに、発想の転換であり、これこそが真の本質的豊かさを呼ぶ方法ではないだろうか。

ビーナルドイズム第一章の言葉

・・・『人を殺していないならば、常に自分が国民の代表だと考え行動しよう』
・・・『失敗をすることは悪ではない。失敗を責めることが悪だ』

自分で言うのもおかしいが、言いえて妙だと思う。

「失敗をどうやって社会の喜びに変えることができるか」を常に自問自答する考え方こそ、間接的思考の骨子だと言える。
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