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女子高生コンクリート事件を考える

2011年01月30日(日) 23:47

ちょうど昨年の今頃この事件の事実を知り、身も心も震えた記憶がある。ここまで残酷になれる人間の恐ろしさを目の当たりにした瞬間と言える。みなさんも、この事件の事実を知り、犯人が同じ空気を吸っているという気持ち悪さを認識すべきであろう。考えるだけで嘔吐してしまう。

以下、『女子高生コンクリート事件』を載せる(http://www.geocities.jp/sce_psp/concrete.htmlを参考)。
これは当時10代の少年グループが起こした事件である。


拉致された女子高生は2階の部屋に監禁されていた。ある日、被害者は、2階から階下の居間に降りて110番したが、そのことを宮野裕史に発見され、暴行を受ける。警察から逆探知でかかってきた電話に宮野が出て「何でもない。まちがいです」と返事をした。 被害者の行為を裏切られたと感じた少年達は、以後被害者に対して顔面を殴ったり、足首にライターのオイルをかけて燃やすというリンチを繰り返して行うようになった。シンナーを吸わせたりウィスキーや焼酎を飲ませて楽しんでいた。 Aは武田鉄矢が歌う海援隊の「声援」の歌詞に”がんばれ がんばれ”があり、いじめている時に唄いながら「お前も歌え」と言って歌わせた。女子高生は小さな声で「がんばれ がんばれ」と自分に言い聞かせている時があった。 リンチによって出来た怪我により、少年たちは、ますます被害者を解放できなくなるとともに、火傷が化膿して、放つ異臭により、被害者を疎んじるようになり、その処分にこまるようになった。 宮野が小倉、湊、渡邊を連れて、宮野の所属する暴力団の上部団体の忘年会に出席、宮野は組員達に「会長が自分で、小倉譲が組織本部長、湊伸治は事務局長」と紹介。 この頃からシンナーを売り出す。
■昭和63年12月5日
東京中野駅構内で電車の追突事故が起きた。Aは女子高生に「あの電車にお前の父親乗っていて死んだってTVでやってた」とからかう。心理的に女子高生を追い詰める。
■昭和63年12月10日
女子高生は「家に帰りたい」と言う。Aは「家に帰ったら母親に何て言うんだよ」と言うと女子高生は「今まで新宿で遊んでました」と答えた。Aは「新宿で、学生服のままそんなに長く遊んでいられるかよ」と言って、殴る蹴るの暴行を加える。火傷の痕にライターのオイルをかけ火をつけた。熱がって火を消そうとするのが面白いと何度も繰り返した。
■昭和63年12月上旬
女子高生の小便で布団が濡れたことを理由にBとCが殴った。果てしなく続く殴打によって顔面が無残に腫れ上がり凹凸のない別人の顔になった。「なんだお前でけぇ顔になったなぁ」と言うと笑い声が響いた。暴行がエスカレートするに伴い女子高生に与える食べ物がなおざりになっていった。 Cの兄(17歳)の役目だったが12月末には1日に牛乳1本パン1枚与える程度だった。(監禁当初は出前を取ることもあった)トイレにも行かせず飲料用紙コップに排尿させ、その尿を飲ませたりした。女子高生は「何でもするから家に帰して」と必死に哀願するが全裸で踊らされたり、自慰を強要され、鉄棒を陰部に挿入して何度も出し入れされ、肛門に瓶を挿入させられた。 Cの両親は異常な気配に気付いていたが暴力を恐れ、2階の物音には耳を塞いでいた。上半身を裸にしてのベランダに出し、牛乳、水を大量に飲ませ、煙草を2本同時に吸わせる。両大腿部・膝・脛部等にライターオイルをかけて点火、熱がって火を消そうとすると手にも点火、火が消えると再度点火した。
■昭和63年12月中旬
被害者を輪姦した湊伸治の中学時代の友人に対して、些細なことから宮野、小倉、湊でリンチを加え、3週間以上入院する大怪我をさせた。
■昭和63年12月19日
Cの家にAが来て、被害者にライターオイルをかけ火をつける。再度にわたる火傷により傷が化膿し異臭を放つ。Aはその臭いが嫌だと言って寄り付かなくなった。臭気で Cの両親が気づくことを恐れ、階下のトイレを使用させず、紙パックに用を足させた。この時既に自力で立ち上がることができなくなっていた。
■昭和63年12月20日
A少年ら3人の他に女が1人やってきて、「化粧」と称し被害者の頬にマジックで髭を書く。この頃少年Cは、家に「面白いのがいる」と知人に公言し、100人程度は監禁について知っていたと見られ、裁判記録に出ているだけで10人が強姦等に参加している。度重なる暴行により、頬が鼻の高さを超えるまで腫れ上がり、目の位置が分からないほどになっていた。監禁当初、被害者が持っていた3000円で出前を取らせたり、Cが歯ブラシなどを買い与えたりしていたが、ケガや火傷が酷くなるにつれ、食事・風呂に対して気を配らなくなった。12月下旬までの食事はカップラーメン、パン、牛乳、卵など家にあったものを、 Cの兄が食べさせたが、それ以降からは衰弱したせいもあり1日に牛乳をコップ1杯飲ませるだけだった。
■昭和63年12月21日
もし開放されれば警察には何も言わない、信じて貰えるまで何でもする被害者が言ったため、「裸で踊れ」「気違いの真似をしろ」などと指示。
■昭和63年12月27日0:00過ぎ
A,B,C,DでAが運転する車で姦淫の相手を探して走行中、2時30分頃、帰宅途中の女性(19歳)を見つけ、自動車の後部座席に乗せしばらく走行した後に停車した車内において、Bが繰り小刀を左手に持ち、Aが果物ナイフを女の膝付近に突き付け、「ここまで来れば分かるだろう。男と女のやることだ」「先輩に女を連れてこいと言われたので、連れて行かなければならない。それが嫌なら俺たちとやれ」などと申し向けて女を脅迫し、その反抗を抑圧し、4時頃、ホテルへ連れ込み、A,B,C,Dの順に、強姦する。
■昭和63年12月28日
AとBとCの三人が夜中にCの部屋に入ると、被害者が腹部を押さえ倒れていた。Aの顔を見るなり、被害者は水が欲しいと頼んだ。Aは水・コーンスープ・ぶどうパンを渡した。部屋から出ることは禁止されていた。牛乳を飲ませたが吐いてしまう。その後、被害者がパックの尿をこぼしたとAは激怒。謝る被害者の下腹部を数十回殴打。
■昭和64年1月4日6:30
JR綾瀬駅近く雀荘で賭け麻雀をし10万円負けたAは苛立つ。 小泉今日子の「なんてったってアイドル」のテープをかけ、歌詞の中の「イエーイ」に合わせて被害者の脇腹に思いっきり殴打する。被害者は、声を出すと殴られるため、痛みをこらえて顔を歪めた。その表情を見て少年達は面白がった。鼻や口から血を流し血だらけの状態になった。顔面・腹部を殴打して転倒させ、顔面等を足で蹴り、倒れては起こし殴る。鼻や口から血を流している顔に蝋燭を垂らし、顔面は蝋だらけになった。さらにはパックの容器にさせた尿を飲ませた。被害者がステレオにぶつかり、全身を痙攣させ倒れたのを見て「仮病だ」とCが激怒。Aは鉄球を被害者の腹に落とし、大腿部、顔面をさらに殴る。殴り終わった後、反応しなくなったためライターオイルをかけ火をつけた。最初は動いたが最後には動かなくなった。暴行は2時間近くに及んだ。Aはリンチの途中で死を意識したと言う。リンチが終わったのが午前10時頃で、その後、被害者が逃げないように足をガムテープでぐるぐる巻きにすると4人でサウナに行った。宮野は、後に「ひょっとしたらあぶないんじゃないか、死んでしまうんじゃないかという気持ちが出てきたと思うんですが、鉄の棒で殴っても動かないんで」と述べている。
■昭和64年1月5日昼過ぎ
湊の兄(G)から小倉に「被害者の様子がおかしい」と電話がかかり、宮野、小倉、湊で駆けつけて見ると被害者は敷きっぱなしの布団で冷たくなっていた。 肢体の処理に困った少年達は肢体を毛布で包み旅行鞄に詰め込んだ。宮野は、後に「"じゃあ、どうする"、"捨てよう"ということになって、自分が劇画を読んでいて、ドラム缶のなかに、コンクリートを流しこんで、海に捨てちゃうという場面を思い出して、そのことがとっさに浮かんで、自分、まえにセメントとか、そういう会社に勤めていたんで、作り方もわかるので、ドラム缶の中に捨てようということになりました」と述べている。 バックに詰め込んだ遺体は、宮野の家の前で、3人でドラム缶にいれ、コンクリートごと流しこんだ。近くの川に捨てようとしたが、小倉が「家が近いので怖い。化けて出るかもしれない」と反対して、東京湾に捨てることにした。 宮野が借りてきたワゴン車を運転して、東京江東区若洲15号地海浜公園整備工場現場空き地に行ったが、適当な場所がなく、道路脇の草むらに捨てた。 Aは以前勤めていたタイル工場に行き、モルタル砂・ドラム缶など調達。遺体をバックにつめ、Aの家の前でドラム缶に入れコンクリートを流し込んだ。この時、工場の元上司は人を殺したことに気づいていたとされている。 Aはこの時、長渕強主演ドラマ「とんぼ」の最終回のビデオを探した。拉致された11月25日女子高生が楽しみにしていたドラマだった。監禁された為、最終回を見ることが出来なかったからビデオも一緒に入れようと思ったからだ。このことにAは「可哀想というより呪われたくなくて・・・」と話している。 20時頃ドラム缶を海に投棄しようと江東区若洲15号地若洲海浜公園整備工場現場空き地まで車を走らせたが恐くなってしまい、空き地にドラム缶を投げ出して帰った。
・・・
身も心も震えたに違いない。これが現実に起きたのだ。また、こんなことをする犯人たちの証言はどこまで本当かわからない。もっと恐ろしいことをしていた可能性も十分にあり得る。また、今現在、彼らは釈放されており、日本で同じ空気を吸っているということらしい。私は気持ち悪くてたまらない。犯人を含め、犯人の親、兄弟まとめて人体実験などで始末してほしいものだ。

仮出所した男の1人は、保護観察関係者の女性と養子縁組を結び姓を変えていたが、2004年(平成16年)5月19日に再び同じ足立区や三郷市で監禁致傷事件を起こし、6月4日に逮捕され、懲役4年が確定した。

・・・今、日本では死刑廃止制度についての議論がなされているが、いかなる事件も当事者にとっては大きな問題であり、怪我をさせられたら腹が立ち、殺されたら命で償ってほしいのは当然の考えである。だが、これは当事者の話であり、他の人間にとっては所詮他人事なのである。だからこそ、死刑制度に反対という声が出るのだろう。もし、『死刑制度に反対ですか?』ではなく、

『あなたの大切な人が殺されたら、あなたは犯人を死刑にしてほしいですか?』

という問いにした場合、多くの人が『殺してほしい』と答えるだろう。つまり、いかなる問題も当事者にとっては大問題であり、いかなる問題も関係ないひとには他人事なのである。・・・しかし、このコンクリート事件に関しては、いくら関係のない私から見ても、犯人に対する憎しみというものを感じざるを得ない。ここまで恐ろしいことをする輩を10年以内に釈放するとは何事であるか?私が総務大臣だったら、テレビで犯人の処刑を映し、有料で見たい人には見せるようにするだろう。そのお金は恵まれない子供たちのために寄付金とすれば、犯人にとってせめてもの償いになるだろう。
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