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人間の価値、それは「違い」だ。

2010年09月13日(月) 08:55

人間の本質的な価値、それは「一人ひとり違う」ということだ。これは言い換えれば「個性」である。昨日、カフェで勉強している際に、隣に座ってい学生たちの会話の中に、「やっぱ大事なのは外見だよね。中身と言うのはきれいごと!」という断言的な発言があったが、その時私は「ああ、この国の不幸だ」「悪い教育システムの成功だ」と感じた。よく、「外見」と「中身」のどちらが大事か?といいう問いがあるが、それは悩むような質問ではない。明らかに「中身」である。「いいや、外見だ」という人は、人間の本質的な価値を全く理解していないということの表れである。たとえば、あなたの大事な人が死んだとする。ある日、その人の「外見」(肉体)か「中身」(個性)のどちらかが帰ってくるチャンスに恵まれた。さあ、あなたはどちらを選択するか?

100%「中身」を選択するはずだ。なぜなら、肉体だけが帰ってきてもコミュニケーションができないからだ。何か質問をしても返事が返ってこない。そう、あくまでも「外見」というのは人形に過ぎないのだ。写真撮影をしたとしても、中身がないのだから、表情すら形成されない。唯一、外見が帰ってくる意味は、「接触」ができるということだ。しかし、中身が無いのだから、あなたが抱きしても、相手はあなたを抱きしめてはくれない。では、「中身」が帰ってきたらどうだろうか?あなたの質問に対する答えが返ってくるだけでなく、接触以外のコミュニケーションが全てできるのである。

人間の本質的な価値、それは「生きている」ことであり、生きている状態とは「反応がある」ということであり、死んでいる状態とは「反応がない」というこどだ。反応は一人ひとり違う。それは「個性」である。つまり、「同じ質問」をしたとき、「一人ひとり違う」ということに、生きている人間の価値があるのだ。
●あなたはアメリカをどう思う?
●あなたは私をどう思う?
●あなたの意見は?
・・・もし、これらに対する答えが、全員同じだったとしたらどうだろうか?それはすなわち、中身が全員同じということを意味しており、中身に価値がなくなるのである。なぜなら、一人に聞けば十分だからだ。

もし、中身(個性)が全員一緒で、「違い」が全くないとしたら、「中身」に価値などなく、「外見」に価値があると言えよう。しかし、創造者はその選択をしなかった。また、外見さえも全員同じにしなかった。だからこそ、「中身」だけでなく、「外見」にも価値があるのだ。もし、全員の外見が同じだったら、それこそ、「外見」に、何の価値もなくなってしまうだろう。全員がトムクルーズであれば、トムクルーズに価値はなくなるし、全員がトップモデルであれば、モデルに価値はなくなる。何事も「希少性」にこそ価値があるのだ。

このように、「異なる」ということに価値があり、「同じ」ことには価値がないのだ。たとえば、以下の曲を聴いてほしい。



スティーヴィーワンダーという歌手の歌である。彼は目が生まれつき見えない。しかし、彼の影響力は間違いなく世界中の人に与え続けている。それは、彼の外見がもたらすものではなく、「声」がもたらすものだ。スティーヴィーワンダーに限らず、歌手に価値があるのは、その人物の外見ではなく、その人物の創りだすメロディーであり創造物だ。だからこそ、姿が見えないにもかかわらずCDが売れるのだろう。これは歌手だけに限らず、全ての人に言えることなのだ。カルロスゴーン(日産の再建人)の外見に価値があるのではなく、彼の発想(リバイバルプラン)に価値があるからこそ、日産は復活したのだのだ。彼以外の誰も思いつかなかった発想および行動、それは、彼が他の人と違うからこそなのだ。世界中でカルロスゴーンと同じ発想を持つ人は誰もいないのだ・・・このように、「異なる」ということに価値があり、「同じ」ことには価値が無いのである。繰り返しになるが、「中身」(個性)が全員同じならば、価値の大きさは「中身」<「外見」となるのは自明だ。

今日の日本においては、「同調」することを大事なこととし、「横並び主義」を重要視した教育になっているが、「同調」や「横並び主義」を重要とする教育には価値がなく、人間の本質的な価値である「違い」を無くしてしまう最悪の教育である。「違い」を「同じ」に変える教育から生まれるものは、個性の欠如である。先にも申した通り、「中身」が同じなった場合、中身に価値はなくなり「外見」に価値が生まれることになる。そのため、今日の日本においては、何事も外見が重要であり、人を愛するとき、人を評価するときでさえ、「中身」よりも「外見」が重要になってしまっているのだ。まさに、「中身」の違いを均一化する日本の教育の成功と言える。

ここで一つの方程式を紹介する。それは、

「中身」の違いを尊重しない = 個性の欠如 = 「中身」<「外見」

では、中身を同じにすることで生じるメリットはなにか?
・・・それは争いが起こらないということだ。
そりゃそうだろう、争いとは「違い」から起こるものであり、「同じ」であればそもそも起こらないのだ。しかし、それは、人間をロボット化するようなもので、著しく人間の本質的な価値を下げることにつながる。そもそも「争い」が起こることそのものに価値があるのであり、言いかえれば、争いが起こると言うことは、それぞれの人間の違い(主張)のぶつかり合いだ。それが本来の人間の姿であろう。なぜ、その機会を奪い、「みんな同じ」「仲良くしよう」などという愚かな教育をするのか?日本の教育の問題は、重要視するレベルが、

「一人ひとりの個性を尊重」<「和を乱さないこと」

になってしまっていることである。また、そのことに関し、誰も不思議に思わない。しかし、世界でこのような教育が行われているのは「日本」くらいなものだ。一人ひとりの違いを尊重することが人間の価値の尊重であり、一人ひとりの違いを同じにしてしまうことは、差別的な行動だ。

「違い」を「同じ」にさせることで「争い」をさせない教育=日本の教育
を受けてしまうと、当然のことながら、生徒は「中身」に価値を見出すことなどできず、結果的に「外見」に価値を見出すようになる。これは生徒がいけないのではない。日本の教育がいけないのだ。今一度、人間の本質的な価値について、国民一人一人が考える時期に来ているのではないだろうか?
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