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新ジャパニーズスタンダードを創らねば、この国は沈むだけ。

2010年09月09日(木) 12:22

最近、とある人物から「日本人は個性が強い」という話を聞いた。一体なにをどのように感じ、日本人に個性があると思ったのか疑問に感じていた。彼曰く、日本の特に若者の服装は一人ひとりファッションセンスが高く、周りに恥じることなく好きな服装を身にまとっている・・・とのことだった。私は真っ向から否定した。

「彼らの個性は自ら構築したものではない。あくまでも流行に乗らないことに対する暗黙の『オブセッション』がある故に創られた、見かけ上の偽個性である」

よく、グローバリズムに乗り遅れてはいけない。私はグローバル化を目指している。・・・などと抽象的な発言をする人がいるが、そういう人はより具体的に「グローバリズム」を定義、明示しなければならない。なぜか?グローバリズムとは、決してワールドスタンダードを意味していないからだ。その多くは、アメリカの常識である「アメリカンスタンダード」に過ぎない。これはアメリカのユニラテラリズム(自国中心主義)の成功例の一つと言えるが、世界はここまでアメリカ化してしまったのか?と呆れるばかりだ。

先ほどの話に戻るが、日本の若者に個性があるというのは「偽個性」に過ぎず、決して、彼らが生み出した「価値観」「行動」に基づく主体的な個性ではない。個性とは、自らの指標で創りだすものであり、決して選択して創られるものではない。人間は「楽しみ」「辛さ」「悲しみ」・・・など、経験により行動の仕方が変わってくるが、日本に生まれ、育った人間のほとんどが、経験から生まれるものの一つに、『「主体性」は悪』というものを挙げるだろう。ここでいう主体性とは、なにも「個性」だけに過ぎず、もっと広く言えば「人と違うこと」と言いかえることができる。その経験故に、一人ひとり違うはずの「価値観」「行動」「理念」というものが薄れてしまっている。例えば、最近の小学校の運動会においては「ゴールを一緒にする」という考えがあるそうだ。そのため、速い人と遅い人とで、スタートの時点で差をつけたり、順位を読みあげない・・・などの小細工がされているようだ。まさしく、愚かの象徴と言える現象だ。差があってこそ意味があるのに、そのような小細工のせいで、真の「喜び」を味わえず、さらには、「競争はいけないこと」「人と同じでなければならない」というオブセッションが生まれてしまう。その意味では、教育者として失格と烙印されてもおかしくないだろう。日本の政治家は子供手当や定額給付金などをばらまく前に、将来の日本を担う若者にお金を注いでほしいものだ。そもそも子供手当(5兆円)をもらう主婦にアンケートをとったら、「7割は貯金」するというらしい。・・・これでは社会に還流されないのだから意味がない。さらに、この額は年間の国防予算(約4兆円)よりも高い。これは一体何事?・・・現在、政府が1年間に自由に使える額は「25兆円」。ホントに「頭を使え」と言いたくなってしまう。世界的な脳神経外科の福島孝徳氏(デューク大学教授)は、

    「日本には資源がない。日本の資源は日本人の頭そのものだ」

と言っているが、まさしく、そのためには、国が全力で対策を取らねばならないのだ。では、どのような教育方針をとらねばならないのか?それは、従来の「主体性は悪」というジャパニーズスタンダードな教育ではなく、

「人の価値は『違い』であり、それは即ち『個性』である」

という、ニュージャパニーズスタンダードである。決してアメリカンスタンダードではない。

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